時折激しくなる雨には閉口したが、雨宿りついでに立ち寄った帰り道途中のスーパーでは缶詰の類が安く、台所の備蓄と財布の中身に相談しながらも結局満足出来る買い物をしてしまっていた。放課後、友羽を探して校内を歩き回っていたために、荒天と相まってこの時期の帰宅の時間としては空が暗く、そうして店内の時計を見て慌てて店を出ようとしたところでまたタイミング悪く雷鳴混じりの雨が降ってきている。
「うあ...どうしよ。叔父さん今日は早番って言ってたから帰り早いのにな...」
恨みがましいため息と共に空を睨んでも雨が上がるわけもなく、今日は友羽のことといい思い通りにならないことばっかりだ、と左手の鞄と買い物袋を窮屈そうに握り直す。
「入那ちゃん...今帰り？友羽は一緒じゃなかった？」
「え？あ、唯乃莉さん」
ぼうっとしていたために、前から歩み寄ってきていた姿に、声をかけられるまで気がつかなかった。
入那が立ち尽くす自転車置き場には雨が入り込んでおらず、雨に足止めを強いられた人々が同じように傘を片手に、せめて駐車場の自分の車に辿り着けるようになるまでは、と時間をつぶしている。
そんな人の列の中に唯乃莉も傘を閉じて加わり、入那の傍らに立つと控えめに傘を叩いて水気を落とし、丁寧に畳みこんだ。しかし、納得いかなかったのだろうか、一度畳んでまとめた傘をもう一回開いて巻き直す唯乃莉は、先に声をかけたにも関わらず入那にそれ以上話を振ることもなく黙ったまま、それでも機嫌は良さそうに、何が楽しいのかにこにこと手元の傘を弄っている。
入那は友羽の姉のそんな所作を、特に感慨も無く眺めていたが、そんなことをしているうちに雨はやや小降りになり、意を決した幾人かが手を顔の前にかざして駆け出したり、空を見上げながら傘を開いたり、俄に周囲の空気が動き出した中、「よし」と傘を胸の高さに掲げて頷く唯乃莉に何とはなしに可笑しくなり、頬が緩む入那だった。
「さて。雨もまだしばらく止まないみたいだし、私の買い物終わるまで待っていてくれるなら送ってあげるよ？」
晴れていればここから歩いては十分もかからない距離だ。とはいえ、雨で濡れる心配と、友羽のこともあってそれは願ってもないことだった。
だからこの場所で会ったのも幸いと、入那は傘を握った右手を一度ぎゅっと結んで、唯乃莉も訝る勢いでその申し出を受けると首肯していた。
「じゃあ今日は友羽と一緒じゃなかったのねえ...ほんと、どうしたのかしらあの子」
「学校にはいなかったから先に帰ったと思ってたんですけど」
「私が家を出る時はまだ帰ってきていなかったものね。どこかで寄り道でもしているんでしょうね」
「友羽が寄り道...あんまり似合わないかも」
友羽が一人でウィンドウショッピングだの本屋で雑誌を立ち読みしているだの、といった光景はとても想像出来なかったが、実際のところ入那のいない場所で本屋くらいは行っているらしいから不思議ではない。と、そうは思っても今ひとつ納得のいく姿が脳裏には浮かばない入那だった。
唯乃莉が店から出てくる頃には大概雨も止んではいたし、入那も早いところ帰宅しなければならなかったのだが、相談らしいものがある、と持ちかけられた唯乃莉は時間を見ることもなく、入那の手を取って店に戻ると、テナントのパン屋に併設された喫茶店に連れ込んだ。
そうする唯乃莉の行動に呆気にとられた入那は、唯乃莉が自分の分のコーヒーと入那の分の紅茶を頼むまで流されるままでいたが、臣吾のことを思い出して早く帰らないといけないことを遠慮がちに申し出ると、唯乃莉は入那が思わず引く程の素早さで携帯電話を取りだし、見咎める店員の視線も気にせず三十秒で臣吾に事情の説明から入那の帰宅が遅れることと自分が送っていくことをほぼ一方的に告げて電話を終えた。パタン、と携帯を折りたたむのと、注文の品が届くのに先立って伝票がテーブルに差し出されるのがほぼ同時だった。伝票を運んできた店員が僅かに肩を落としていたのは、唯乃莉に携帯の件で一言告げようと構えていたのをすかされたかららしい。
どうせ他に客もいないでしょうに、と言いたげに皮肉っぽい目でその背中を見送っていた唯乃莉に入那が話し出したのは、今日の友羽のどうにも放置しておけない不安定っぷりだった。
「最近はあんなこと無かったんですよ。でも今日の友羽はなんだか...」
「去年みたく見えた？」
「ってのとはちょっと違うんですけど。見てて心配にはならないけど不安にはなるっていうか、なんだか一人で空回りしてるっぽくて。心当たりあります？」
「無くはないけど...」
と言った割にはすぐにそれを話し始めるでもなく、唯乃莉は困ったように砂糖もミルクも入れていないコーヒーにスプーンをさしてひとしきりかき回している。
「で、入那ちゃんに顔を合わせづらかったと」
と言いつつ左の手でも携帯電話をひっくり返し玩ぶ様は心底戸惑っているようではあったが、入那は入那で一人でさっさと下校した友羽が何をやっているのか気を揉んでいた。
教室での友羽の様子を思い起こすにつけ、確かに他人を容易には寄せ付けない空気は一年程前のことを想起せずにはいられなかった。その一方で、当時のように行く先に絶望じみた畏れを抱くのでもなく、何があるのか知れないということによる得体の知れ無さだけを感じていることに、自分で言っておいて何だが納得のいく感慨を抱いてもいる。
そう思えることは決して不快ではないから、不安という表現は必ずしも正確ではない。気分のすぐれないことは確かだが、友羽のことについて何か「心配」するようなことなど無い自信はあって、そのことで入那が無意識に気になっていることがあるとしたら、そうした自分の想いを持て余していたからなのだろう。
だから唯乃莉の携帯電話で家に連絡してみては、という提案も浮かばなかったのは無理の無いことで、一方唯乃莉が連絡をとる気になれなかったのは友羽とは方向が逆の懸念があってのことである。
「昨夜ちょっとね、友羽とけんかみたいなことになってね。それでいろいろ気にしているんじゃないかと思う」
「けんかって...友羽と唯乃莉さんが？珍しい、っていうか......」
「けんかにもならないものね。あの子と私の間じゃあ」
「そんなこと...ないですよ。あたしとはしょっちゅうだったもん」
と、入那は言ったものの、実際珍しいなどというレベルの話ではない。去年、入那が友羽の身の回りに介入することが増えるにつれて衝突の回数も当然増えていったのだが、当時も今も、入那はそのことを懐かしく、時に恥ずかしく思っても、後悔と呼ばれる感情を抱くことはない。むしろくすぐったく、誇らしく思えさえする。
入那は唯乃莉に懐いていたし、友羽のことを深く知るに連れてその姉に敬愛の念とも言える情を抱いてもいた。その唯乃莉が友羽と角突き合わせる場面、となると見たことはおろか話に聞いたこともないのは、唯乃莉が出来た人格だから、というわけでもないことに気がついたのは、入那自身が友羽と衝突を繰り返していた時期を脱してしばらく経ってからのことだった。
「そんな感じだから、私の方も友羽と面と向かうことに少し躊躇はあるのよね。出来れば入那ちゃんに代わってもらいたいくらいだけど。電話するの」
と、携帯電話を差し出す唯乃莉を見て思う。自分が、友羽と自分が続けてきた想いのぶつけ合いをこの人は出来なかったのだろうと。
そうして、ひどく責務を負いたくなった。何か自分に出来ないのだろうかと。
だから神妙な面持ちで、その携帯を受け取る。一瞬、ほっとした唯乃莉の見せた安堵の苦笑に、きりと胸をきつく締め上げられながら。
「でも先にこの店出た方がよくありません？」
他に客のいない店内で、例の店員が何か言いたそうにこちらを藪睨みの視線を向けていたのが可笑しかった。
続く