「よーしお前ら聞いているか。いいかー、家に帰るまでが修学旅行だぞー！」
「センセー、これから出発するところでーす」
「おー？そうかー？これは参ったなあ。わはははははは」
「引率の教師が一番盛り上がってるのってどうなんよ？」
「わたし高梨くんの話信じてもいい気がしてきた」
「あの一部教師の暴走で行き先が東北になったっての？まさか...とは言い切れないかも。言われてみれば」
「だろだろ？」
「だからって高梨が威張ることでもないでしょーが」
ぺし、と平手で悠大の頭を軽く叩くが、当の本人は何故か楽しそうな顔で入那の顔を見返していた。
その表情に呆れる。何が楽しくてこんな漫才みたいなやりとりをしないといけないんだか。
「それにしても友羽遅いなぁ。遅刻するよ」
「あと仁村だけだもんな。集合時間まで...げー、五分無いじゃん」
駅に直接集合、というのは確かに普段には無いことだったが、八時という時間はそれほど早いわけでもない。大体、学校に来てさえいれば少なくとも遅刻はしたことがない友羽のことだったから、余計な心配をせずにはおれない入那だった。
「どうする？電話してみようか？」
真人が携帯を取りだして言う。
「友羽は携帯持ってないよ。っていうか修学旅行中は携帯禁止じゃん。なんで持ってるのよ」
「だーいじょうぶ。バレなきゃ問題無いって」
アレにバレずに済むのかなぁ、と思ったのだが口にすることは無かった。
「つまりバレれば問題だと。没収」
「え？...」
既にバレていたからだった。
「久我原。おめぇよ、全員揃ってないのはお前の班だけだぞ。目をつけられてるの気が付かなかったのか？」
「いやあ、あははは......先生、お目こぼしは？」
「するか。ほれとっとと寄越す。帰るまで預かっておくからな」
「...へーい」
渋々携帯を渡す真人。本体より重いんじゃなかろうか、と思うくらいにくっついたストラップの山に顔をしかめつつ、葦原は「没収袋・１日目」と大書された布を縫いつけた巾着袋に真人の携帯を放り込んでいた。
あのおっきな巾着を毎日いっぱいにする気だろうか、そういえば何だか既に何か入っていたみたいだけど、と馬鹿馬鹿しく思ったところで、駅前通の向こうから喧しく鳴り響くクラクションが、だんだん近づいてくることに気が付く。
「あ、なんか来たよ」
明日香も気付いたのか、右手をかざして音の方向を見る。
軽自動車が一台、最後の信号が赤になった瞬間に交差点に飛び込み、そのままの勢いでロータリーに突っ込んできた。
並んだタクシーのすぐ脇をぎりぎりの距離ですり抜ける軽自動車は、少なからぬ悲鳴を引き連れて入那たちのところへ真っ直ぐ辿り着き、派手にタイヤを鳴らして急停車した。
「おまたせー。おはよ、入那ちゃん」
助手席に突っ伏して肩を振るわせている友羽を無視して、唯乃莉が入那に向かって呑気に手を振っていた。
「は、はぁ...おはよう、ございます」
「あはは、ちょっっっと寝坊したのよね、この子。お陰で久しぶりに本気出してしまったわ。友羽？着いたよー」
「...着いたよー......じゃないわよっ！生きた心地しなかったんだからね！もう当分姉さんの運転はごめんだわっ！！」
友羽は忌々しそうに車を降りると、喚きながら扉を荒々しく叩きつけた。
「間に合ったんだからいいじゃない。大体自分で寝坊しておきながらその態度は無いんじゃない？」
「寝坊って言ったってたったの五分でしょうが！なんでそれで家を出るのが三十分も遅れるのよ！？」
「...なんでだっけ？」
「......もういい。荷物下ろすからさっさと行って」
肩を落として荷室から自分のバッグを下ろすと、元気なくしっしっと追い払うように手を振っていた。
唯乃莉はそんな友羽の姿を不満げにふくれた顔でしばらく見ていたが、葦原の姿に気が付くと、
「あ、先生ですか。妹をよろしくお願いしますね。ではー」
と、取り繕うように言うが早いか、来た時の勢いそのままにタイヤから白い煙をあげて去っていった。
一同は毒気を抜かれた表情でそれを見送っていたのだったが、
「せんせー、久我原班全員揃いました」
真人の報告する声で我に返る。
ゴムが焼ける臭いが立ちこめる中に聞こえるその声も、何処かうつろではあった。
前橋駅を出ると、両毛線の普通電車は十五分ほどで高崎に途着する。そこで長野新幹線に乗り換え、大宮から更に東北新幹線に乗って今日の目的地の仙台へ向かう。
乗り換えが多いためにあまり落ち着くことの無い旅路ではあるのだが、それでも大宮から出た「はやて」は途中で止まることなく仙台まで行くため、入那たち五人は三列シートを対面にして座り、朝の出来事など無かったかのように、あるいは無視することにして、話が弾んでいた...のは大宮を出て数分間のことでしかなかった。
「なんで会長がいるんだよ...」
「おれが知るわけないじゃん」
いくら小声とはいっても目の前にその当人がいるのでは筒抜けだっただろうが、進行方向のシートに、窓側から友羽、入那、そして片倉祥子という並びを見てしまっては真人も悠大に愚痴らずにはおれなかった。
後ろ側窓際の明日香は早々に退散を決め込んでしまったのか、流れる風景を一人でじとーっと眺め、その向かいに座る友羽も同じようにしている。
入那は時折左右に目を配って首を傾げるばかりで、積極的に会話をしようというつもりも無く、この場で悠然としているのは、祥子ただ一人という有様だった。
「どうするよ、この空気...」
「何か文句でもあるの、久我原くん？」
「いや文句は無いけどさぁ...何でこっちにいるのよ、会長」
文句は無いが不平は山のようにありそうな顔で尋ねると、祥子は左手の人差し指で通路の反対側を指し示した。
真人がそちらを見ると、二列シートを対面にしてじーっと居心地悪そうにしている四人が目に入る。
「私の班も五人だから一人あぶれるのよ。座席空いているんだから別に構わないでしょ」
アーソウデスカ。文字にすればそんな顔つきで黙り込んだ。
もう話す気力も無いとばかりに無視というかそこにいないものと決めて、しかしチラチラと視線を向けずにはいられず、それは悠大と入那と明日香も同様のようで、そんな針のむしろ状態で平然としていられるのは大物だからなのか、単に鈍いだけなのか。どちらかと言えば前者のように入那には思えたが、それよりも友羽が居心地悪そうにしていることが気になった。
「友羽、気分でも悪い？」
「うん？そんなことないけど」
と、素っ気ないのは入那以外の人間がいる場でのこととしてはいつも通りだとしても、目も合わせようとすらしないのは常に無い。
結局その原因が入那の左に座っている片倉祥子のせいだということしか分からず、かといってそれについて両者を、もしくはその片方でも問い詰めるわけにもいかず、悠大に何度か目配せして「なんとかして」とサインを送るくらいのことしか出来なかった。
その悠大も、入那の訴えは理解したものの、口を開きかけたところで祥子にジロと一睨みされて萎縮し、そのまま何も言えなかったという有様で、そのまま一同一言も発せず、はた迷惑なことにその重い雰囲気を周囲にもまき散らし、祥子の班もろとも甲子園の一回戦で負けて母校に帰る途中の高校野球部チームみたいな空気を仙台まで運ぶことになってしまった。
「いやほんっっっと、どうすんのよコレ」
「分かってるならなんとかしてくれよ班長...」
皆が目で語れるのであれば苦労はしないだろうに。思っても詮無いことを考えるのが約二名いた。
「はぁ......肩こったぁぁぁぁぁぁっ！！」
仙台駅の新幹線ホームに降り立つなり荷物を置いて大きく伸びをすると、後ろから、
「入那、さっさとどいて。後ろつかえてるんだから」
不機嫌さを隠そうともしない友羽の声がした。
「何よー。誰のせいで疲れたか分かってて言ってるんでしょーね」
「さあ？呼んでもいないのに勝手に居座った片倉さんのせいじゃないの」
まあそれはそうだけど、そこで触ったら斬れそうな空気醸し出してたのは友羽だったし。
どうせ言ったところで聞き入れるはずもなく、実際後ろから早く出ろーと担任の声もしてきたので、文句は飲み込んで動きだす。
先に降りた真人が待っているところに行くと、悠大と明日香は既に来ていて、入那と友羽が揃ったところで形だけの点呼をとり、班長の真人が報告に行く向こうで、祥子がこちらを見ているのに気が付いた。
その視線は入那に向けられていたのか、友羽に向けられていたのか。判別は出来なかったものの、微かに笑っていることだけは確かに思えた。
「感じ悪う」
「でしょ？」
しかしそれも一瞬のことで、祥子は自分の班の方へ向き直っていた。
「...って言いたいところなんだけどね。友羽さ、どうしたらあーゆー態度をヒトにとらせられるわけよ？」
「知らない。彼女に直接訊いてみればいいじゃない」
「...望み薄か。仕方ないなぁ、もう......」
隣に経つ友人の行状に問題が全く無いとは思わないが、今まで話をしたこともない相手に自分までこうも面白くない顔をされる謂われもなく、現状では結局友羽に引きずられるしかない。どっちにしても入那には友羽に無条件に肩入れする以外の選択肢が無いのだし、精々衝突しないように気を遣うしかないか、と思うと気が滅入ってくる。始まったばかりの修学旅行は、どうにも先が思いやられるスタートになったようだった。
「そういえば...なんで今日遅れそうだったの？寝坊がどうのこうのって言ってたみたいだけど」
「わたしはそんなに寝坊なんかしてないわよ。あのアホ姉が...何を考えたのか『記録に挑戦だ』とか言い出してぎりぎりまで出発遅らせるもんだから...」
「あー。劇的な登場を狙ったとか。唯乃莉さんらし...くはないね。どうしたんだろ」
「知らないわよそんなこと」
「最近友羽は知らないことばっかりだ」
皮肉のような茶化しのような、おどけた口調で言ってみたのだが、友羽は逆に真剣に考え込むように黙ると、入那から目を逸らして独り言のように呟いた。
「...そうね。本当に、分からないことばかり」
「友羽？おーい」
爪先立って目線を合わそうとしたがバランスを崩してしまい、友羽の胸に身体を預けるような格好になる。
不意にのしかかられて慌てた友羽だったが、かろうじて入那を抱きかかえて押しとどめると、一言「ばか」と小声で言って心底可笑しそうに笑う。
間近で見た親友の笑顔にホッとし、自分の足で立つと悠大と明日香が怪訝な目で見ていた。というか、何を考えているのか悠大は怒ったような困ったような、もしくは照れたような顔をして、明日香の方も似たようなものだ。訝しむ様子は実際のところ、扱いかねる様子にも見えて、入那は何のことやら見当もつかなかったのだが、友羽は一人得心したように頷くと、やおら入那の頭を胸に抱きしめた。
「うわぁっ！ちょっと友羽何すんのよっ、離してってば！」
明日香も悠大もそれを見て呆れたのか、拍子抜けしたように肩を落としたところでちょうど真人が戻ってきた。
「移動するってさー...どしたん？みんな」
「ないしょ」
友羽は悪戯っぽい笑顔でそう言うと、入那を解放する。息苦しかったのか、赤い顔をして友羽に抗議の声を上げようとしたのだが、他の三人が荷物を抱えて歩き始めたので諦め、仕方なしにその後に続く。
そして傍らに置いたバッグを持ち上げ、身を翻した時、目に入るものがあった。
気になってその方角へ視線を向ける。対面のホーム。
そこに一人の女性がいた。いや、女性というには小柄で、どう見ても高校生くらい、身の丈だけ見れば友羽よりも低そうで、下手をすれば入那と同年代にも見える。そう思わせないのは、ひどく落ち着いた姿のせいなのだろうか。
五月の東北には少々早いと思える薄手の白いワンピースには、今時...という感想が頭に浮かんだが、背中まで伸びていると思しき清楚な印象を与える黒髪と相まって、不思議とこの場に奇妙な存在感と説得力を伴って在るようにも感じる。
足下に置かれたスーツケースのような鞄は不釣り合いに大きく、これで一人でなければ新婚旅行にでも行くかのようだった。
「国東ー、早く来いよー」
エスカレーターに並んだ列から悠大の声がした。入那はバッグを肩に担ぐと、
「ごめーん、今行くーっ！」
と声を上げる。
もう一度対面ホームを見ると、その女性は踵を返して去るところで、背中に何か不穏なものを背負ったようにも見えたその姿を、理由は分からなかったが、しばらくは忘れられそうになかった。
続く