それからしばらくは揃って本を読んで過ごし、九時近くになった頃に唯乃莉が車で入那を送っていった。
帰り道に姉と車内で二人きりになることに躊躇ってついていこうか迷っていた友羽だったのだが、「早く行こうよ」とそれが当然のことのような入那に引っ張っていかれ、仕方なしに入那が助手席、友羽は後ろに座って、それでも入那のマンションに着くまでは程よく賑やかに短い時間を過ごすことが出来ていたのだが、別れた後は後部座席で無表情に黙って、ルームミラーで運転席の唯乃莉から顔を覗かれないよう、窓近くに顔を寄せてそのまま暗い道をじっと見ていた。
「友羽？前に座ればいいのに」
「ここでいい」
仕事でも使う、古い軽の４ナンバー車は後ろのシートが狭い。ただでさえ背の高い友羽には余計に窮屈であるのに、頑なに姉と距離を近くすることを拒んでそれでも意識せずにはおれない表情を二年前のそれと比べてみると、不意に唯乃莉の頬をくすぐり、思わずクスと笑みを洩らしてしまう。
それに気が付いた友羽が姉を一瞥し、余計に拗ねたように更に頬杖ついて再び外の景色に見入る姿を、直接見ることは出来なかったが容易に想像のつく唯乃莉だった。
車は工事中でアスファルトの表面が剥がされた道路に差し掛かる。大きめの段差を乗り越える度にミシと軋む車体にうんざりしてスピードを落とすが、路面の荒れと車体がはねるタイミングが合致して余計に揺れが激しくなってしまった。
「あいたっ」
後席の声に目を向けると、友羽が頭を押さえて呻いている。どうもどこかに頭をぶつけたらしい。
「だから前に座れば、って言ったのに」
「ほっといてよ...もう。それよりちゃんと前向いて運転してっ！姉さん運転下手なんだからっ」
「車を運転したことのない人に下手って言われても、ねえ...」
皮肉っぽく笑ってかるくいなすと、確かに危険ではあったので前に向き直る。信号が赤になった交差点が目に入った。
「っ！！」
慌ててブレーキを踏むと、ぼすんと助手席が揺れて、しばしの間の後に声にならない声で友羽がうめきを上げる音が聞こえた。
「あ、あはは...ごめんね。確かに前向いてないと危なかったわ」
「ねえ、さん...」
「だからシートベルト締めなさい、って言ったじゃないの」
「言ってないわよっ！」
しれっと言う割にまだ胸の動悸が止まなかった。夜ということで交通量が多いわけではないが、それでも結構な速度で他の車が目の前の国道を横切っていく。
はぁ、と一息ついて気分を落ち着かせると、さっき別れた入那の両親が交通事故で亡くなっていることを思い出した。
唯乃莉の視線から逃げて変な体勢でいることに懲りたのか、友羽は今度はちゃんとシートベルトを締めて着座している。ルームミラーでそれを確認すると唯乃莉は左のウィンカーを点け、信号が青になるのを二度見てから左折した。
「姉さん？」
「ちょっと寄り道。コンビニに寄ろうよ」
「わたしは用事無いけれど」
「洗剤切らしていたのを思い出したのよ」
「別に明日でもいいじゃない」
「ま、そう言わないで」
そう言いつつ、交差点から数百メートルも行った所にあったコンビニに車を滑り込ませた。特に狙って入ったわけではない、何の変哲もないコンビニには他に車も自転車も止まっておらず、店内は暇そうにしている店員が一名、棚のチェックをだらだらと行っているだけのようだった。
「ちょっと待ってて。友羽は何か要るものある？」
「無い。眠くなってきたから、もうさっさと済ませて」
「はいはーい」
財布片手に車を降りていった姉を、目で追ってみた。
背が高く細身の友羽と違って、どちらかといえばふくよかな唯乃莉はその性格通りにおっとりした歩みで店に入っていく。
普段コンビニなど行き慣れなく、どこに目的の品があるか分からずにきょろきょろと店内を見渡している唯乃莉を苦笑しながらしばらく見ていたが、陳列棚の陰に姿が隠れると退屈を紛らわそうとしてラジオのスイッチに手を伸ばす。しかし、あと数センチというところで指が届かず、仕方なしに車の外に出ると、シートを戻して助手席に座り直し、ラジオをつける。ＮＨＫのＡＭ放送は九時のニュースをまだやっていた。特に聴きたいものがあったわけでもないので、野党の代表が交代したというニュースをそのままにしておいた。
しばらくぼーっとしている。考える事といえば、昼間入那の話していたこと、固い意志を表に出しながらも何処か自分でもそれを信じ切れていない入那の様子と。
一度決めたことなら、滅多なことではそれを引っ込めない、良く言えば直向きな、友羽のひいき目込みで悪く言えば頑固な入那に似合わない、寂しげな表情が胸を曇らせる。大事な親友にそんな顔をさせる彼女の保護者のことを思い出すと、無性に腹立たしくもある。その一方で、自分が入那にしてやれることの少なさに絶望的な気分にも陥る。
考えがまとまらず、苛立ちが渦巻く身の内を鎮めるかの如く自身を両腕で掻き抱くと、店の扉が開いて袋を下げて出てきた唯乃莉が視界に入った。
その姿を見て、一瞬、自覚するのも癪だったのだが、ほんの僅かに救われたような気がした。
唯乃莉はそんな気分を敏感に察知したのか、助手席に座っていた妹を見て心配そうに真剣な顔をするが、すぐにいつもの長閑な微笑に戻って運転席側に回り込み、車に乗り込む。
「何これ」
座席に収まってすぐ、唯乃莉が袋から取りだして差し出してきた紙パックを訝しく見つめる友羽。
「何って、アセロラジュース。好きでしょ」
「そうだけど...いや、何で？」
「お店の中で迷ってたら見つけたの。そういえば友羽が好きだったなぁ、って思って買ってきた」
「......ありがと」
「どういたしまして」
唯乃莉はニコと満足げに笑うと、自分の分の野菜ジュースの紙パックを取り、ストローを挿して一口飲む。
「あー、おいし」
そんな単純なことが心底楽しいと思っていそうな姉の顔を、鬱陶しくも羨ましく感じて手元の紙パックジュースに目を落とす。
「飲まないの？」
「あとで。それより早く帰ろう」
「そうね」
ギアをバックにいれ、慎重に後ろを確認しながら後退して向きを変え、左右を確認すること三回で国道に出ると、元来た道に戻って帰宅の途についた。住宅街の中では広い道とはいえ、歩道にガードレールも無くて到底スピードを出せるはずもなく、しかし先ほどの件があったとはいえスピードが随分と遅いと友羽には思えた。
居心地の悪さは、意外なことに今度は唯乃莉の方から友羽に話しかけることもなく、揃って黙ったままでいることにも因るのだろうか。
仕方なく手元の紙パックにストローを突きたててくわえてはみたものの、隣に気を取られて味など分かろうはずもない。そして時折横目で友羽が自分を見る視線を唯乃莉は気付いているのだろうが、意にも介せず運転に集中している姿がどうにも解せない。
そして、落ち着かない気分を肩を揺すって紛らわすことさえ始めた時に、ようやく唯乃莉が言葉を洩らした。
「入那ちゃん」
ぴた、と貧乏揺すりじみた動作を止めて、その名に続く声を待つ。
「なにかあったの？」
「......何で？」
「なんだか、元気無かったよね」
そうだっけ...別にいつもと変わりなかったけどなぁ、と今日友羽の家に来てからのことを思い出してみた。
「気のせいならいいんだけどね」
とても納得したようには見えなかったが、唯乃莉が収めたものを蒸し返すつもりもないし、入那のことについて自分より把握していそうな姉の態度に、微かな妬心めいたものを抱いたのも事実だったから、学校の校門で会った朝のことを話すつもりにもなれなかった。
「卒業が待ち遠しいな、って話をしたくらいかな」
だから、事実には違いないのだろうけれども、それだけ聞いても想像する他ない程度のことを言ってそれで終いにしてしまう。
「そう」
なのに、姉はそれで理解してしまったように、シートに深く座り直して肩の力を抜いている。
そのことに苛立つのは友羽の了見の狭さ...というよりも、年相応の当たり前の感情だ。そしてそれに気が付かないことも、唯乃莉からしてみれば当然のことだった。
友羽はもうどうでもいいや、という風に目を閉じている。考え続けてもあまり自分に都合の良い展開になりそうもない。そこまで想像する聡明さは備わってはいても、それを処理する感情がまだ追いついていない。いや、それが出来ていたこともあったのだろうけれど、そんな友羽をどうにかしたいと思ったのが唯乃莉だったし、どうにかして欲しいと願ったのが友羽であった。そしてそれらの一端は間違いなくかなえられている。
けれども、今この狭い車内で友羽が抱える感情はそんな未熟さをもどかしく思うものであり、さっき別れたばかりの入那の笑顔を思い出して、しばし得難きを得た幸福の残り香を堪能してそれを誤魔化すのだった。
「ところで姉さん」
「うん？」
「洗剤、買った？」
「......そういうことはもっと早く言ってよ、もう...」
加えて、姉にささやかな逆襲をして憂いを軽く晴らすことも、忘れてはいなかった。
続く
帰り道に姉と車内で二人きりになることに躊躇ってついていこうか迷っていた友羽だったのだが、「早く行こうよ」とそれが当然のことのような入那に引っ張っていかれ、仕方なしに入那が助手席、友羽は後ろに座って、それでも入那のマンションに着くまでは程よく賑やかに短い時間を過ごすことが出来ていたのだが、別れた後は後部座席で無表情に黙って、ルームミラーで運転席の唯乃莉から顔を覗かれないよう、窓近くに顔を寄せてそのまま暗い道をじっと見ていた。
「友羽？前に座ればいいのに」
「ここでいい」
仕事でも使う、古い軽の４ナンバー車は後ろのシートが狭い。ただでさえ背の高い友羽には余計に窮屈であるのに、頑なに姉と距離を近くすることを拒んでそれでも意識せずにはおれない表情を二年前のそれと比べてみると、不意に唯乃莉の頬をくすぐり、思わずクスと笑みを洩らしてしまう。
それに気が付いた友羽が姉を一瞥し、余計に拗ねたように更に頬杖ついて再び外の景色に見入る姿を、直接見ることは出来なかったが容易に想像のつく唯乃莉だった。
車は工事中でアスファルトの表面が剥がされた道路に差し掛かる。大きめの段差を乗り越える度にミシと軋む車体にうんざりしてスピードを落とすが、路面の荒れと車体がはねるタイミングが合致して余計に揺れが激しくなってしまった。
「あいたっ」
後席の声に目を向けると、友羽が頭を押さえて呻いている。どうもどこかに頭をぶつけたらしい。
「だから前に座れば、って言ったのに」
「ほっといてよ...もう。それよりちゃんと前向いて運転してっ！姉さん運転下手なんだからっ」
「車を運転したことのない人に下手って言われても、ねえ...」
皮肉っぽく笑ってかるくいなすと、確かに危険ではあったので前に向き直る。信号が赤になった交差点が目に入った。
「っ！！」
慌ててブレーキを踏むと、ぼすんと助手席が揺れて、しばしの間の後に声にならない声で友羽がうめきを上げる音が聞こえた。
「あ、あはは...ごめんね。確かに前向いてないと危なかったわ」
「ねえ、さん...」
「だからシートベルト締めなさい、って言ったじゃないの」
「言ってないわよっ！」
しれっと言う割にまだ胸の動悸が止まなかった。夜ということで交通量が多いわけではないが、それでも結構な速度で他の車が目の前の国道を横切っていく。
はぁ、と一息ついて気分を落ち着かせると、さっき別れた入那の両親が交通事故で亡くなっていることを思い出した。
唯乃莉の視線から逃げて変な体勢でいることに懲りたのか、友羽は今度はちゃんとシートベルトを締めて着座している。ルームミラーでそれを確認すると唯乃莉は左のウィンカーを点け、信号が青になるのを二度見てから左折した。
「姉さん？」
「ちょっと寄り道。コンビニに寄ろうよ」
「わたしは用事無いけれど」
「洗剤切らしていたのを思い出したのよ」
「別に明日でもいいじゃない」
「ま、そう言わないで」
そう言いつつ、交差点から数百メートルも行った所にあったコンビニに車を滑り込ませた。特に狙って入ったわけではない、何の変哲もないコンビニには他に車も自転車も止まっておらず、店内は暇そうにしている店員が一名、棚のチェックをだらだらと行っているだけのようだった。
「ちょっと待ってて。友羽は何か要るものある？」
「無い。眠くなってきたから、もうさっさと済ませて」
「はいはーい」
財布片手に車を降りていった姉を、目で追ってみた。
背が高く細身の友羽と違って、どちらかといえばふくよかな唯乃莉はその性格通りにおっとりした歩みで店に入っていく。
普段コンビニなど行き慣れなく、どこに目的の品があるか分からずにきょろきょろと店内を見渡している唯乃莉を苦笑しながらしばらく見ていたが、陳列棚の陰に姿が隠れると退屈を紛らわそうとしてラジオのスイッチに手を伸ばす。しかし、あと数センチというところで指が届かず、仕方なしに車の外に出ると、シートを戻して助手席に座り直し、ラジオをつける。ＮＨＫのＡＭ放送は九時のニュースをまだやっていた。特に聴きたいものがあったわけでもないので、野党の代表が交代したというニュースをそのままにしておいた。
しばらくぼーっとしている。考える事といえば、昼間入那の話していたこと、固い意志を表に出しながらも何処か自分でもそれを信じ切れていない入那の様子と。
一度決めたことなら、滅多なことではそれを引っ込めない、良く言えば直向きな、友羽のひいき目込みで悪く言えば頑固な入那に似合わない、寂しげな表情が胸を曇らせる。大事な親友にそんな顔をさせる彼女の保護者のことを思い出すと、無性に腹立たしくもある。その一方で、自分が入那にしてやれることの少なさに絶望的な気分にも陥る。
考えがまとまらず、苛立ちが渦巻く身の内を鎮めるかの如く自身を両腕で掻き抱くと、店の扉が開いて袋を下げて出てきた唯乃莉が視界に入った。
その姿を見て、一瞬、自覚するのも癪だったのだが、ほんの僅かに救われたような気がした。
唯乃莉はそんな気分を敏感に察知したのか、助手席に座っていた妹を見て心配そうに真剣な顔をするが、すぐにいつもの長閑な微笑に戻って運転席側に回り込み、車に乗り込む。
「何これ」
座席に収まってすぐ、唯乃莉が袋から取りだして差し出してきた紙パックを訝しく見つめる友羽。
「何って、アセロラジュース。好きでしょ」
「そうだけど...いや、何で？」
「お店の中で迷ってたら見つけたの。そういえば友羽が好きだったなぁ、って思って買ってきた」
「......ありがと」
「どういたしまして」
唯乃莉はニコと満足げに笑うと、自分の分の野菜ジュースの紙パックを取り、ストローを挿して一口飲む。
「あー、おいし」
そんな単純なことが心底楽しいと思っていそうな姉の顔を、鬱陶しくも羨ましく感じて手元の紙パックジュースに目を落とす。
「飲まないの？」
「あとで。それより早く帰ろう」
「そうね」
ギアをバックにいれ、慎重に後ろを確認しながら後退して向きを変え、左右を確認すること三回で国道に出ると、元来た道に戻って帰宅の途についた。住宅街の中では広い道とはいえ、歩道にガードレールも無くて到底スピードを出せるはずもなく、しかし先ほどの件があったとはいえスピードが随分と遅いと友羽には思えた。
居心地の悪さは、意外なことに今度は唯乃莉の方から友羽に話しかけることもなく、揃って黙ったままでいることにも因るのだろうか。
仕方なく手元の紙パックにストローを突きたててくわえてはみたものの、隣に気を取られて味など分かろうはずもない。そして時折横目で友羽が自分を見る視線を唯乃莉は気付いているのだろうが、意にも介せず運転に集中している姿がどうにも解せない。
そして、落ち着かない気分を肩を揺すって紛らわすことさえ始めた時に、ようやく唯乃莉が言葉を洩らした。
「入那ちゃん」
ぴた、と貧乏揺すりじみた動作を止めて、その名に続く声を待つ。
「なにかあったの？」
「......何で？」
「なんだか、元気無かったよね」
そうだっけ...別にいつもと変わりなかったけどなぁ、と今日友羽の家に来てからのことを思い出してみた。
「気のせいならいいんだけどね」
とても納得したようには見えなかったが、唯乃莉が収めたものを蒸し返すつもりもないし、入那のことについて自分より把握していそうな姉の態度に、微かな妬心めいたものを抱いたのも事実だったから、学校の校門で会った朝のことを話すつもりにもなれなかった。
「卒業が待ち遠しいな、って話をしたくらいかな」
だから、事実には違いないのだろうけれども、それだけ聞いても想像する他ない程度のことを言ってそれで終いにしてしまう。
「そう」
なのに、姉はそれで理解してしまったように、シートに深く座り直して肩の力を抜いている。
そのことに苛立つのは友羽の了見の狭さ...というよりも、年相応の当たり前の感情だ。そしてそれに気が付かないことも、唯乃莉からしてみれば当然のことだった。
友羽はもうどうでもいいや、という風に目を閉じている。考え続けてもあまり自分に都合の良い展開になりそうもない。そこまで想像する聡明さは備わってはいても、それを処理する感情がまだ追いついていない。いや、それが出来ていたこともあったのだろうけれど、そんな友羽をどうにかしたいと思ったのが唯乃莉だったし、どうにかして欲しいと願ったのが友羽であった。そしてそれらの一端は間違いなくかなえられている。
けれども、今この狭い車内で友羽が抱える感情はそんな未熟さをもどかしく思うものであり、さっき別れたばかりの入那の笑顔を思い出して、しばし得難きを得た幸福の残り香を堪能してそれを誤魔化すのだった。
「ところで姉さん」
「うん？」
「洗剤、買った？」
「......そういうことはもっと早く言ってよ、もう...」
加えて、姉にささやかな逆襲をして憂いを軽く晴らすことも、忘れてはいなかった。
続く